クリストファー・リーブ

Christopher Reeve

Christopher Reeve クリストファー・リーブ
追 悼 クリストファー・リーブ
クリストファー・リーブ
クリストファー・リーブ

2004年10月9日、リーブ氏は自宅で心臓発作を起こし翌10日、ニューヨークの病院で逝去した。あまりにも突然の死、享年52歳であった。ここ数週間床づれが悪化していたが5日にはシカゴの脊髄損傷の研究会に出席していたという。

1999年10月の基金設立総会には「日本の皆さん、決してあきらめないで下さい。もはや脊髄再生は夢ではありません」とのビデオメッセージが寄せられた。

当基金からダナ夫人への哀悼のメールに、リーブ財団(CRPF)からは以下のメッセージが送られてきた。 「我々はみな、クリストファー・リーブ氏の死を悼んでおります。彼の家族とファンデーションはあなたがたのお気持ち、志に感謝すると共に、彼の家族にお伝えします。彼の信じた研究は、彼を記念して今後も続けられます。」

クリストファー・リーブのプロフィール

クリストファー・リーブは、車椅子のヒーローとして、知らない人は無いほどです。スーパーマン俳優のヒーローとしてよりも有名であるかも知れません。これまでのクリストファー・リーブの、生い立ちも含め、受傷、急性期、社会復帰から今日に至る過程のプロフィールを紹介したいと思います。以下は、リーブ・ファンが主宰するホームページ、Christopher Reeve Homepage、及びタイムやニューズウイーク等アメリカのメディアにおける幾つかの報道をもとにして、纏めてみたものです。

1952年9月25日、ニューヨーク市に生まれる。

4歳の時、両親が離婚。母はジャーナリストのバーバラ・P・ラム、父は作家で大学教授のフランクリン・D・リーブ。母親はクリストファーと弟のベンジャミンを連れてニュージャージー州のプリンストンへ移る。そこで、2、3年後、株式仲買人のT・ジョンソンと再婚。父もコネティカットで再婚。そのため、兄弟は双方の家族を往復しながら生活することになる。作家、詩人、ロシア文学研究者であった父のもとで過ごす時間は、父の友人である著名な文化人が集まる日曜日のディナーも含め、知的刺激に満ちたものであった。

兄弟は、はじめパプリック・スクールに入ったが、義父の配慮で、私立の進学校、プリンストン・ディ・スクールに通うことになる。8歳の頃までに学校の演劇に出るようになり、音楽とピアノのレッスンに興味をもった。クリストファーは9歳の時、選ばれてマッカーター劇場のオペレッタ、ギルバート&サリバンに出演する事となった。マッカーター劇場はプリンストンのプロの劇場である。学校と劇場を両立させながら続ける。後に彼は、劇場は自分にとってホームのようなものであった、と振り返っている。

15歳の時、マサチューセッツのウィリアムズタウン劇場の夏期研修生になる。以後ウィリアムズタウン劇場は、彼の演劇活動の拠点となった。高校卒業後、コーネル大学に入学。音楽理論と英語を専攻。しかし多くの時間を演劇の勉強と劇場の仕事に費やした。アメリカの主要な劇場のみならず、イギリスやフランスの著名な劇場でも仕事をした。

1974年の秋、努力の成果が際立っていたため、ニューヨークのジュリアード学院に特別に入学を認められる(この時、ともに入学を認められたのが、ロビン・ウィリアムズであった)。ジュリアード在学中、テレビのメロドラマ「命をかけた愛(Love of Life)」に出演。

1976年「マター・オブ・グラビティ(A Matter of Gravity)」でブロードウェイへのデビューを果たす。これは、ブロードウエイスターのキャサリーン・ヘップバーンとの共演であった。この年、仕事と学業の両立が難しくなり、ジュリアードの最後の学年を諦め、仕事に専念することを決めた。またこの年、ロスアンゼルスへ行き、ハリウッド映画にも脇役で出演。ニューヨークに戻り、オフ・ブロードウェイのプロダクションに所属することになった。

1978年、「スーパンマン」俳優となる。

1978年、映画「スーパーマン」のオーディションを受け、合格。「スーパーマン」の撮影は18ケ月に及んだが、殆どイギリスで行われた。そこでゲイ・エクストンと出会う。その後、二人の親密な関係は続き、二人の子供、アレクサンドラとマチュウが生まれた。

「スーパーマン」の成功の後、映画「いつかどこかで(Somewhere in Time)」に出演。また1980年夏、ウィリアムズタウン劇場で演劇上演の仕事にたずさわる。「スーパーマンⅡ」が製作され、再度スーパーマンを演ずる。

1987年、ゲイ・エクストンと正式に結婚しないまま別れる。二人の子供については共同養育を継続。ウィリアムズタウンで過ごした夏、あるレストランでそこのショウに出演していたディナ・モロジニと知り合う。まもなく二人は同棲し、1992年に結婚、息子ウィルをもうける。ディナは女優と歌手のキャリアをもっていた。

「スーパーマン」シリーズは長編シリーズとなり、1987年の第4作まで続いていた。この間10年間、スーパーマン・スターとしての名声を確立。

芸域の拡大と社会活動への参加、そして多趣味なスポーツマン

そのほかにも「日の名残(The Remains of the Day)」(1993年アカデミー賞受賞作品)など17本の映画に出演した。出演したテレビドラマは12本を数える。また、数多くのドキュメンタリーやテレビのスペシャル番組のホストやナレーターをつとめている。彼の並外れたルックスの良さと鍛えられ均整の取れた体躯は往年のハリウッドスターを彷彿とさせるものであった。殆ど毎夏、ウィリアムズタウン劇場で演劇の仕事にたずさわった。

一方、社会的活動にも深い関心を持つ。俳優の組織である創作家連盟(Creative Coalition-アーティストの権利擁護のための団体)の創設に参加し、また国際アムネスティのために活動して来た。児童問題や環境問題にも積極的に関わってきた。どちらかと言えば民主党寄りのリベラルな政治理念を持っていた。1987年には投獄された作家を支援するためにチリへ行っている。他方、スポーツマンでもあり、趣味として多くのスポーツ競技をこなした。たとえば、ヨット、スキューバダイビング、スキー、グライダーや飛行機操縦、乗馬などである。そして、馬術競技イベントで、騎乗した馬が何かに驚いて突然停止したため、落馬事故となったのである。

1995年5月27日、C1~2頸髄損傷者となる。

1995年5月27日、クリストファー・リーブのサラブレッドが、柵をジャンプするところで立ち往生し、彼を放り出してしまった。彼は頭から墜落し、一瞬の内に麻痺し呼吸も出来ない状態となった。素早い手当てが彼の命を救い、精緻な手術が、椎骨C1とC2を安定させ頭蓋と脊椎を連結した。ケスラー・リハビリテーション研究所で6ヶ月を過ごした後、彼はニューヨークの自宅に戻った。そして、積極的な社会的活動を開始する。(ここまでの経過についての詳細は、以下を参照。)

「Ⅱ.クリストファー・リーブの急性期医療」

「Ⅲ.受傷から早期社会復帰までの経緯」

1996年3月25日(受傷後10ヵ月後)、第68回アカデミー賞式典に人工呼吸器を搭載した車椅子で出席、スピーチを行う。また、同年、8月26日(受傷後1年3ヵ月後)、民主党全国大会に出席して、自らの発声でスピーチを行った。彼のこの驚異的なスピードでの回復と社会復帰、そのための彼の努力によって、彼は、アメリカの脊髄損傷者のシンボル的存在となった。

映画・演劇活動への復帰、
そして脊髄再生医療推進と麻痺者のための福祉活動の先頭に立つ

1996年1月には、ニュージャージー州ウェストチェスターにあった家の改築が済み、やがてリーブと妻ディナ、息子ウィルはそこに住むようになった。先妻との間の子供たちアレクサンドラとマチュウも、学校のスケジュールが許す限り、そこで生活を分かち合うようになった。リーブは「子供たちと共に馬に乗ったり、ピアノをひいたり、歌を歌ったり、テニスをしたりといったことは全て叶わなくなった(子供達も自分も大好きだった)けれど、今では共に時間を過ごすことの重要性を以前にもまして皆受け入れている。」と語っている。家族一丸となってしかしそれぞれのやり方でリーブの活動が支えられていくことになる。脊髄損傷者を治療する医学・医療を推進するため、クリストファー・リーブ財団(CRF)をディナの協力のもとに設立する。

彼はこの時、「脊髄再生医療成功の暁には、自分が最初の治験者となってもよい」、「7年後の50歳の誕生日には立って歩き、支援してくれた人々と乾杯したい。」と語った。“再び立ち、歩く。”― それは全ての脊損者にとって究極の願いである。早速、ワシントンでのロビーイング活動を開始、脊髄損傷に関する研究を促進するために、国立保健衛生研究所(the National Institutes of Health、NIH)への予算配分の増額をかち取った。事故後徐々に彼の身体の部分(特に左脚、左腕部分)で感覚の回復が見られた。が、依然として肩以下何一つ動かすことは出来ず、人工呼吸器も必要だった。とはいえ、1998年始め頃から、彼の体調は少しずつ安定して行った。1998年4月には、自伝 Still Me が発刊され、全米ベストセラーとなった。彼は次のように語る。「自分は、実際、楽観主義者である。私の傷ついた脊髄C1、C2、から下の脊髄は健在の筈で何時でも動き出す準備は整っている。自分は残された人生を今のままの状態で過ごすつもりはない。」と。そして一日4時間のリハビリを行い、テレビへの出演や映画の監督、講演や脊髄研究のための資金募金活動を勢力的に続けたのである。

1999年、「アメリカ麻痺協会(APA)」と「クリストファー・リーブ財団(CRF)」が合併して、「クリストファー・リーブ・麻痺財団(CRPF)」となり、リーブはその会長に就任した。脊髄再生研究推進や麻痺者のための福祉推進を目指して、連邦議会へのロビーイング、イベント、講演等で、彼の生活は益々多忙となった。褥瘡の悪化や骨折等、様々なトラブル乗り越えながら、彼は自分の役割を果たしていった。

2002年9月初旬、リーブは二冊目の著書 Nothing is Impossible を英米の両国で出版、時をほぼ同じくしてオーディオ版も出した。これはいずれも、書評は好評で売れ行きもよい。2002年9月25日にリーブは50歳を迎えた。「50歳の誕生日には立ち、歩きたい」という彼の願いは、いまだ果たされてはいないけれども、誕生日を前に9月10日付けで「クリストファー・リーブ麻痺財団」によって発表された、リーブの機能回復状況に関する報告書には、彼の肉体的機能が著しく改善していることを伝えている。
(「日本せきずい基金ニュース」No.15参照)

さらに、2003年2月28日に、新しく開発された、いわば「横隔膜ペース・メーカー」呼吸管理とでも言うべき治験に挑戦した。腹部4ヶ所に小さな孔をあけ、横隔神経の挿入ポイントに対応する横隔膜に小さな電極を置き、電極は皮膚下のワイヤーより体外の小さなバッテリーに繋がり、横隔膜を刺激して、呼吸を可能にするというものである。彼は現在、まだ呼吸器を使用しているが、酸素消費量が増加している時にこの方法を取っている。そして、横隔膜の筋肉が強度を回復するにつれ、呼吸器から永続的に離脱できるようになるだろう、と期待している。彼は、自分自身を治験体としながら、脊髄損傷医療の前進に貢献しようとしている。
(「日本せきずい基金ニュース」No.18参照)

彼の長男マチュウは、2002年5月、ブラウン大学を卒業(人文学部、記号論専攻)、テレビのスペシャル番組のために、父リーブの回復過程に関するドキュメンタリーを制作する仕事に携わっている。また、娘のアレクサンドラは2001年にイェール大学に入学。父の乗馬事故をものともせず、馬上球技ポロ競技に興じている。エクストンとの間の子供たちも、父の近くにあって彼の活動と挑戦を支えるまでに成長した。

(解説:阿部由紀:2003年5月)

クリストファー・リーブの急性期医療 について

1995年、落馬事故によって、スーパーマン(クリストファー・リーブ)、が脊損(頸部C1~C2)者となったことは、周知の事実です。その後の彼の闘病と活躍は良く知られています。彼の急性期に関する情報は少なくなりつつあるので、あえてここで記録しておきたいと思います。

かつての「インターネット」のC・リーブのファンのホームページからの紹介です。

『1995年5月27日落馬事故で頸椎の一番と二番を損傷。年齢42歳。4日後、ヴァージニア大学医療センターで意識を取り戻す。』とC・リーブの事故について記載されています。この、受傷から9日目の6月5日にC・リーブは手術を受けます。C・リーブが事故にあった1ヶ月後の6月28日(水)、C・リーブの治療に当たったヴァージニア大学のドクターの記者会見が行われました。ここでは、その会見における手術に関する報告を紹介します。頸随損傷にたいする処置では、恐らく当時としては、最先端の医療が施されたものと思われますので、紹介することに致しました。

ジェーン博士の報告

受傷はほぼC1ーC2部分であった。脊椎の一番と二番、即ち頸部椎骨の上から二つが骨折していた。我々は先ず、横隔神経(脊髄から横隔膜につながる神経)が傷つかずに完全な形で残っていることを見いだした。彼は自立呼吸できる状態ではなかったが、呼吸機能自体はきちんと残存していた。

第二に指摘すべき点は、肩の後ろ側の筋肉(僧帽筋)に至る神経が右側で、きわめて良好に機能していることがわかったことである。第三に、これら二点を総合すると、彼の体の左側の感覚は損なわれているが全体として感覚は残っており、またC4から胸部にかけての感覚はきわめてよい状態で残存していることが結論づけられる。これらのこと全ては、脊髄が完全にやられてしまったのではないことを物語っている。彼の脊髄は手の着けられないほど重傷ではなかったのである。このことは、MRI検査でも確認されている。それは彼の脊髄が受けたダメージが主として左側であることを示していた。

彼の場合、いわゆる変形ブラウン‐セカール症候群(脊髄の片側半分が損傷されて起こる症状)であった。幸運とも言えた。時たま彼は胸の筋肉をいくらか収縮させているように思えた。また実際その動きはC4、C5レベルあたりまで降りてきているようであった。ついで我々が知ろうとしたことは横隔神経が多少とも活性化するかどうかである。以上が彼の受傷と彼が治療を始めるに当たって置かれた状況である。では我々は損傷した背骨を修復するために何をしたか?損傷は主にC1であった。彼の場合、歯状突起骨折( odontoid fracture歯が鋭く尖ったような折れ方)のいわゆるタイプ1とタイプ3が認められた。

タイプ3は通常のくさびが打ち込まれたようなタイプの損傷ではなく、砕け散ったようなタイプである。

C1とC2の間は不安定であった。また恐らく、頭蓋骨の後頭部の骨とC1椎骨の間も不安定であった。

我々の手術の手順は以下の通りである

先ず、C1とC2の間をしっかりと安定させるため、脊髄を保護するための二枚の薄い骨片をワイヤーの上に載せて、C1とC2間に置き、縫いかがりながら押し込んだ。この薄い骨片は彼の腰の骨から採った。一旦それがしっかり固定されたのを確認してから、今度はチタンのリングを利用し、そのリングと薄い骨片の下に置かれたC1からC2に至るワイヤーを溶接して接合させた。(チタンを使った理由はMRI検査に適応できる素材だからである。)ついで我々は頭蓋骨にドリルで穴をあけ、先のワイヤーを通してから再度リングにしっかり溶接した。

我々は、先週月曜日に、これまでの経過を見るためCTスキャンで検査を行った。フィルムは彼の腰から採った骨片が頸椎にしっかりと組み込まれていることを示していた。もはや脊椎がバラバラになることはないであろう。我々はこの検査の結果を喜んでいる。しかし、接合が完全であるかどうか結論を出すのはまだ早すぎる。

接合の結果の評価に関しては、およそ8週間以内にケスラー・リハビリテーション研究所において行われることになるだろう。現時点でのC・リーブの治療状況の概要は以上である。

(翻訳・解説:阿部由紀)

受傷から早期社会復帰までの経緯

通例では頸部C1~C2部分の損傷が重症であった場合、医師も受傷者側もあきらめてしまうケースが多いようです。結局、命を失うか、恒常的にベンチレーターにつながれるかということになります。しかし、C・リーブはそうはなりませんでした。前頁の手術治療の概要に続いて、受傷から急性期-亜急性期の経過と早期社会復帰の経過を当時のC・リーブのファンのホームページ Christopher Reeve Homepage (1996年)をもとに報告することにします。

1995年

5月27日
落馬事故で頸椎の一番と二番を損傷。年齢42歳。(カールペパー医療センターに救急急送後、メチルプレドニゾロンの投与を受けて直ちにヴァージニア大学医療センターにヘリコプターで搬送。4日後、ヴァージニア大学医療センターで意識を取り戻す。6月5日:損壊した二つの椎骨を接合し、頭と首を安定させるための5時間に及ぶ手術を受ける。
6月28日
ヴァージニア大学医療センターを退院し、ニュージャージー州のケスラー・リハビリテーション研究所でのリハビリを開始する。
7月31日
ニュースで、C・リーブはなお呼吸器を使用しているが、明確に話すことが出来、電動車椅子を使うことも出来る、と報じられている。
9月29日
ABCテレビのニュース・ショウ「20/20」がC・リーブへのインタビューを特集。この時点で彼は、まだケスラー研究所にいたが、呼吸器の助けを借りながらも会話が出来、電動車椅子を操作して移動が出来た。彼も家族の支えを信頼し、他の彼の支援者は彼がよくなって来ていると感じていた。
10月16日
事故以来、初めて公式の場に姿を見せる。彼が会長をつとめる俳優の組織、創作家連盟(Creative Coalition)の代表として、ニューヨークで行われた、俳優 ロビン・ウィリアムズの受賞式に参加、連盟賞の授与を行う。(受傷後4ヵ月半)
11月最終週
NBCの番組「トゥデイ・ショウ」が脊髄損傷に関するシリーズを放送。その中でC・リーブと妻ディナへのインタビューを取り上げる。そこで二人は、脊髄損傷についてのより一層の研究が必要であること、ケスラー研究所を出る予定であること、保険がどれ位の期間治療費用をカバーできるか懸念していること、等を語っている。番組は「アメリカ麻痺協会」 (American Paralysis Association)についても言及。
11月27日
PBSが番組「イン・ザ・ワイルド (In The Wild)」のエピソード、「クコ鯨とクリストファー・リーブ」を放送。「イン・ザ・ワイルド」は3つの特別企画のシリーズもの。
12月13日
最終的にケスラー・リハビリテーション研究所を退院。公式に彼を支えてくれた人々に対する感謝の言葉を発表。医師団は、彼が呼吸器なしでも15分間呼吸出来るようになったと報告。ニューヨークの自宅に戻る。

1996年

1月5日
ニュースで、C・リーブが呼吸器なしで1時間自力呼吸出来るようになったと報じられる。
1月10日
C・リーブの二人の子供がイギリスで「プロジェクト2000」のキャンペーンを開始。「プロジェクト2000」は「国際脊髄研究基金 ISRT」のプロジェクトである。
1月10日
脊髄損傷による麻痺と戦うためのNPO、クリストファー・リーブ財団(CRF)を設立。同時に慈善事業家ジョーン・アーヴァン・スミスとともに脊髄研究に貢献することを目的とした「UCI・リーブ‐アーヴァン研究センター(The UCI Reeve-Irvine Research Center)」を設立。
1月16日
血圧に関するトラブルを治療するため、パウンド・リッジ゛の家(ウエストチェスター郡)から「北部ウエストチェスター医療センター」へ入院。翌17日、状態は安定しており何ら危険はない旨の談話を発表。談話は以下の通り。「私は今、いわゆる自律神経過反射といわれる症状におそわれています。これは私のような高度の四肢麻痺者におきます。たいていの場合、結腸の圧迫や排尿のトラブル、あるいは足の爪が肉にくい込んだり、着衣や靴ひもがきつ過ぎたりといった、ごく単純なことからもおきます」この時の症状は、尿路感染によるものと診断された。
1月31日
ニュースでC・リーブが上院議員J・M・ジェフォーズ(ヴァーモント州選出、共和党)提出の法案を支持していると報じられる。この法案は保険会社が生存中支払いの保険金の上限を1000万ドル以下に設定しようとしているのを阻もうというものである。現在では殆どが100万ドルの上限を設けている。ワシントンポスト紙の報道によれば、現在C・リーブの医療費用は年に40万ドルであるが、彼の保険の上限は120万ドルである。ディナ夫人は次のように言う。「私が一歩踏み込んで政策を直視するようになった時、事態は正直に言って、C・リーブが事故にあった時と同じ位ぞっとするものであった」
2月8日
ニュース報道によれば、C・リーブは彼の人生について本にすることを作家のロジャー・ロビンブラットとの間で契約を結んだ。この本は、1998年までには書き上げられ、ランダム・ハウス(Random House)から出版される予定である。この本の出版については300万ドルで取り引きされたと推測されている。
2月12日
テレビ・ショウ「エキストラ(Extra)」で俳優ロビン・ウィリアムズがインタビューに応じ、1月の新聞に掲載された「彼がC・リーブの医療費を支払うことに同意した」という報道を否定した。(C・リーブも「否定」の表明を行っている)
2月21日
CNNのショウ番組「ラリー・キング・ライヴ (Larry King Live)」に出演。今では呼吸器なしで、90分間呼吸が出来るようになったことを報告。また再度、保険金の上限を引き上げるための立法化を支持する意見を主張。 そして「アメリカ麻痺協会、APA」について語り、彼がその役員になっていることについて語った。 (受傷後9ヶ月)ここでいう立法化の問題とは、ジェフォーズ上院議員によって行われている上院立法1028号に対する修正提案である。また、下院で上院の1028号に対応するのが下院立法2893号である。下院でもこれに対して、ジェフォーズ修正案と同様の修正法案が、アンナ・エショー下院議員(カリフォルニア選出、民主党)によって提案されている。
3月10日
オハイオ州のセント・フランシス・ヘルスケア・センターに1800万ドルで新しく建設されるリハビリテーション・センターのための支援セレモニーに出席。これはニューヨーク以外での最初の公的場所への出席である。ここでC・リーブは次のように述べている。「我々は全面回復への道の発端にたっている。それは起こりうる。科学者達は、そのための準備が出来ており、そのために力を尽くす意欲を持ち、そしてその能力を持っている。支援を得つつ、彼らはそれを為すであろう。」(受傷後9ヶ月半)
3月14日
CBSの朝のニュース・ショウで、テープに収録されたC・リーブのインタビューが放映された。その中のコメントで、彼は、1996年のオリンピックと併催されるパラリンピックに参加する障害を持った選手達を、敬意を込めてたたえている。
3月25日
68回オスカー賞(アカデミー賞)受賞式典に出席。その際、C・リーブはステージの上から「ハリウッドは社会的問題に取り組んでいる。」と言うことを広くアピールし、その意味で代表的な映画として、「プラトーン」を紹介した。彼は総立ちの拍手に迎えられた。彼はこの時、次のようにも語っている。『子供の頃、私や私の周りの人達は、ただ楽しみのためだけに映画を見に行った。やがてキュブリックの「博士の異常な愛(Dr. Strange Love)」を見た時、それは核による破壊の狂気について考える出発点となった。スタンレー・クレーマーの「手錠のままの脱獄(The Defiant Ones)」は人種問題について教えてくれた。そして我々は、映画が社会的問題を扱っていることを認識し始めたのである。』と。(受傷後10ヶ月)
3月25日
CNNはニューヨーク市議会議員 スー・ケリーがC・リーブを国民芸術賞候補に指名と報道。
3月28日
CNNはワーナー・ブラザーズ社の次のアニメーション映画「アーサー王物語(The Quest for Camelot)」でC・リーブがアーサー王の声で出演する予定であり、またライシャー・エンターテイメントも彼に映画の監督を期待していると報道。
4月18日
この週のニュース・リリースで、 Tribecca Interactive社から発売される「9(Nine)」と題されたテレビゲームCDーROMで、その中の声の一つをC・リーブが受け持つ予定と報道された。
4月23日
上院は法案1028号を可決。しかしジェフォード修正案は否決された。4月30日:C・リーブはその環境保護活動によって、テッド・ダンソン (Ted Danson)の「アメリカ海洋保全推進運動(American Ocean Campaign)」グループから賞を受けることになった。
5月15日
ワシントンで脊髄研究のための資金獲得を目指したロビー活動を行う。C・リーブは十分に資金があれば、7年位の内に歩けるようになるかもしれないと信じている。彼は、クリントン大統領とアレン・スペクター上院議員(ペンシルバニア州選出、共和党)と会い、両者から支援の約束を得た。スペクター上院議員は、上院の「労働、健康、福祉に関する小委員会」の議長をつとめており、同委員会は「国立保健衛生研究所(National Institute of Health、NIH)」への政府拠出金額を決定する権限を持つ。結局、このワシントンでのロビー活動は、NIHに対して脊髄損傷研究のために1000万ドルの追加拠出を行うという約束を引き出した。彼のワシントンでの活動のスポンサーはグッド・ハウスキーピング(Good Housekeeping) 誌であった。同誌は6月号のカバー・ストーリィとして、リズ・スミスによるインタビューをまじえたリーブ家の物語を取り上げている。
また同じく15日、彼はNBCの夕方のニュース向けに簡単なインタビューを受けた。(受傷後11ヶ月半) 5月24日:ABCのショウ番組「20/20」は、ピーポディ賞を獲得した1995年9月のリーブ家とのインタビュー番組を再放送するとともに、若干の最新の情報を追加した。この番組は、リーブ家のニューヨーク・レンジャーズ(New York Rangers) の試合観戦の模様を紹介し、またC・リーブが「アメリカ麻痺協会(APA)」の会長になったことを報じている。この番組のビデオとその複写についての相談は、電話1-800-913-3434へ。
5月27日
CNNは、C・リーブがHBOで放映される映画を監督することになろうと報道。「たそがれのなかで(In the Gloaming)」と題された1時間ものの映画で10月に撮影に入る予定。(受傷後丁度1年目での企画)
6月10日
番組「エンターテイメント・トゥナイト(Entertainment Tonight)」は、C・リーブに関するコーナーで、彼が、「アメリカ麻痺協会」のためにプエルト・リコで開かれた週末慈善事業に参加していたことを報道。またシカゴ・トリビューン誌は、彼が重度障害者についてのHBOの特別番組「憐れみはいらない(Without Pity)」でナレーターをつとめる予定であること、また、この夏、ウィリアムズタウン劇場のフェスティバルのために演劇の演出を依頼されていること等々を広く取り上げている。
6月15日
新聞報道によれば、C・リーブは、ハリウッドのウォーク・オブ・フェイム(Hollywood Walk of Fame)に名を記した星型を確保するであろう、とのこと。
6月29日
新聞報道によると、C・リーブと妻のかつての出会いの場であった、レストランが改築、新装されて彼らに進呈されることになったとのこと。7月2日:ニュースで、C・リーブがCBSのテレビ映画に出演する予定と報道される。題名は「西洋双六(Snakes and Ladders)」で、恐らく来年の放映となろう。
7月12~14日
Shake-A-Leg主催のニューポート沖(ロードアイランド州)ヨットレース、ウォール・ストリート・チャレンジ・カップ(Wall Street Challenge Cup)が企画され、C・リーブも参加。Shake-A-Legは全国的な非営利組織(NPO)で、受傷後のリハビリテーション支援や、脊髄損傷者、その他神経障害を負った人々のための活動を行っている。今回の行事はC・リーブにとって、事故後初めての、海に出て船を出す経験となる。(受傷後1年1ヵ月半)
7月24日
PBSは、C・リーブを描いた「イン・ザ・ワイルド」のエピソードを「ネイチャー・シリーズ」の一部として再放送(1995年11月27日の項参照)。7月から数週間にわたって、テレビの特別番組「ポール・ミッチェル有名選手招待プエルト・リコ夏期スポーツ祭典(Paul Mitchell Puerto Rico Summer Celebrity Sports Invitational)」が放映された。その中でC・リーブへのインタビューも行われている。この特別番組は、プエルト・リコでの「アメリカ麻痺協会(APA)」の募金活動を紹介。7月31日ケーブルテレビMSGもその様子を放映。また6月10日の「エンターテイメント・トゥナイト」での慈善活動紹介もこうした報道の一つであったといえよう。
8月15日
C・リーブはアトランタで開催された1996年パラリンピック開会式典のホスト役をつとめた。試合は10日間にわたって、120の国から3500人の障害を持つ選手達の参加を得て行われた。C・リーブは6万4000人の観衆の前で語った。「皆さんを信じる多くの人々がここに集まっているということは、人生最高の贈り物であります。皆さんのまわりを見回して下さい。いかに多くの人々が皆さんの力を信じているか知って下さい」と。 (受傷後1年2ヶ月半)
8月19日
アメリカの雑誌「タイム」がC・リーブをカバー・ストーリィに取り上げている(8月26日付け)。8月19日(月)から始まる一週間に販売された号である。本号には、ロジャー・ローゼンブラッドによって書かれた12頁に及ぶ詳細な記事と写真数枚が掲載されている。主な内容は、脊髄損傷についての最近の研究に関するニュース、C・リーブの人生の回顧、彼の近況、等である。ロジャー・ローゼンブラットは、リーブの自叙伝執筆のため彼と共同作業中である。その本はランダム・ハウスから出版される予定である。また、この記事は、C・リーブが呼気操作式電動車椅子(クイッキーP300)を使っていることや、筋萎縮を阻止し、心機能や体の全般的状態を改善するために「Stem Master FES Ergometer」等を使用していることも紹介している。
8月26日
C・リーブはシカゴで行われた民主党全国党大会に出席して自らの発声でスピーチを行った。シカゴ・トリビューン紙は、彼のスピーチを実況放送形式のオンラインで流した。このスピーチで彼は「障害をもつアメリカ人の法(Americans with Disabilities Act、ADA)」の支持を訴え、医学・医療、健康管理に関する科学的研究のより一層の充実を呼びかけた。(受傷後1年3ヶ月)
また、C・リーブが、10月18日にサクラメントで開催されるカリフォルニア商工会議所96年度大会でビデオ講演する予定となった。「ニューヨーク・タイムズ」のC・リーブに関する記事は、彼の保険の治療費をカバーする期間がさらに3年延長されたこと、ティルド・テーブルで立位をとる訓練で長時間立っていられるようになったこと、彼の脊骨と左足に若干の感覚の回復がみられ、呼吸器なしで90分間連続自力呼吸が可能となったこと、等を報じている。
9月4日
トロント・ウエスタン・ホスピタルにおける寄付を募る催しでスピーチを行った。
9月15日
スミス氏のサン・ジュアン・カピストラノ訓練牧場で年一回開催される馬術競技大会「オーク・フォール・クラシック(Oak Fall Classic)においてUCIとジョーン・アーヴァン・スミスが、第一回クリストファー・リーブ・リサーチ・メダルの授与を行った。10月中旬:HBOが、障害をもった人々に関するドキュメンタリー「憐れみはいらない(Without Pity)」を放映する。そのナレーションをC・リーブが担当している。(この後のことについては、彼の自伝「STILLME」、翻訳「車椅子のヒーロー」〈徳間書店、2000年〉を参照。)
解説

C・リーブがヴァージニア州カルペパーでの馬術競技会で落馬し受傷してから、オスカー賞授賞式に出場し、劇的な脚光を浴びるまで、僅か10ヶ月。パラリンピックや民主党大会で総立ちの歓迎を受けるまで僅か1年3ヶ月。この間の経過は次のことを雄弁に語っている。即ち、たとえC1~C2部分の重症であっても、速やかに、適切な診断が下され、優れた医師団の優れた外科手術によってタイミングの良い処置が施され、適切な介護とリハビリが行われれば受傷者の救命、社会復帰の可能性が十分あるということである。

「ニューズ・ウィーク」や「タイム」によるとC・リーブの治療は恐らく次のように行われたと思われる。

受傷後、直ちにカルペパー医療センターに運ばれ、フリーラジカル(活性酸素等)の発生による脊髄細胞の壊死を防ぐため大量のメチルプレドニゾロン(合成ステロイド剤)が投与された。これは受傷から8時間以内に大量投与されないと効果がないとされる。ついで、ヴァージニア大学医療センターへヘリコプターで移送された。(註:メチルプレドニゾロンの大量投与については、その効果と副作用に関する評価が専門家の間でも分かれており、米国FDAは、今日でも、急性期脊髄損傷に対する適用薬としては認めていない。)

そこで直ちに損傷状況の慎重な診断がされ、骨折した脊椎が脊髄をこれ以上傷つけないように首と頭部安定を含めて素早い外科的処置が施された(前頁に紹介)。その際、全身検査の結果明らかとなった肺の液状貯留物を取り除き、肺をクリーンにしている。執刀は全米トップクラスの神経外科医である。この医師団の管理下で急性期を乗り切り、早くも一ヶ月後にケスラー・リハビリテーション研究所に移る。ここには脊髄損傷者専門のリハビリ部門がある。一週間後に呼吸機能訓練専門のドクターの下でベンチレーター・プログラムがスタート。ベンチレーターの使い方と同時に、発声練習とベンチレーターをはずす訓練が開始された。並行して、呼気と吸気で電動車椅子を操作する訓練も開始される。この三ヶ月後にテレビの特別番組に登場。

C・リーブは非常に運が良かったとも言える。脊髄の完全断絶は免れていた。その上、機能が失われていくのを阻止し、失われたものを回復するための「時間との闘い」が極めて合理的に遂行された。続く自立呼吸機能回復を目指す訓練、筋萎縮を阻止し、心機能、肺機能の後退を防ぐためのリハビリメニュー策定、トータルリハビリ体制移行のタイミングも的確であった。それに、彼は年額40万ドル(約4400万円-当時のレート)の医療費を支払えるエリート障害者である。誰にでも恵まれる医療的チャンスではない。しかも彼はそのチャンスを生かす強靭な精神と肉体にも恵まれていた。しかし我々は彼が到達した医療水準、彼の医療プロセスを知っておく必要がある。このような情報は誰にとっても重要である。

一方、C・リーブが踏み出した新たな一歩は世界の脊髄損傷者にとって少なからぬ刺激となった。彼は、有名人専用のガードマン付き個室から出て、多くの障害者の中に入り、「アメリカ麻痺協会」(現クリストファー・リーブ麻痺財団)の運動の先頭に立った。彼は脊髄研究センターを設立し、多くの協力者を得ながらキャンペーンの先頭に立っている。脊髄再生研究のための胚性幹細胞利用の問題提起もおこなっている。又重度障害者のための募金活動や行政への働きかけ(保険の治療費カバー率引き上げ、障害者支援の政府拠出金の増額等)に積極的に取り組んでいる。

かつて、受傷後一年も経たないうちに、未だにベンチレーターを手放せない四肢麻痺者でありながら、C・リーブは、アメリカの選挙の季節という風をしっかりと利用しつつ、精力的にインタビューに応じ、ナレーターをこなし、映画出演や映画監督を引き受け、メディアや映画界での活動を開始した。彼の前向きのエネルギーと彼を支え、障害者を受け入れるアメリカ社会の多様性、そして彼が提起する研究の推進と情報の共有という視点は、今日なお一層示唆的である。たとえ彼が超エリート障害者である故に可能であったとしても…。今後とも、彼自身の回復過程と彼を中心とする運動の展開にいろいろな意味で注目したい。

翻訳・解説:阿部由紀:2003年2月)

クリストファー・リーブの民主党大会におけるスピーチ

クリストファー・リーブは、1996年8月、受傷後一年二ヶ月の時、民主党全国大会の壇上にあって、人口呼吸器を搭載した車椅子から、自らの言葉で、アメリカのあるべき福祉政策、障害者政策、脊損者の医療的救済について、根本的な問題提起を行いました。このスピーチは、現在もなお、通用し、且つ重視されねばならないメッセージを含んでいると考えられるので、ここに紹介致します。

皆さん、大変ありがとうございます。ここでお話し出来る機会を頂き、大変ありがとうございます。ここ2~3年「家族の価値」について多くのことが語られてきました。私は事故にあって受傷して以来、私達は全て家族であり、全て等しく価値を持っているということに深く思い至るようになりました。もし、そうだとすれば、即ちアメリカが実際、一つの家族であるとするならば、私達はこの家族の多くの成員が傷ついていることを知らなければなりません。5人に1人が何らかの障害を負っているのです。皆さんの伯母さんがパーキンソン病かもしれません。あるいは隣人は脊髄損傷者かもしれません。兄弟にエイズ患者がいるかもしれません。もし「我々は皆家族」という立場に立つとすれば、私達はこのような事態に対して何かを為していかねばなりません。

まず、第一に申し上げたいことは、我が国はいかなる種類の差別も許していないということであります。それ故に「障害を持つアメリカ人の法(Americans with Disabilities Act、ADA)」が極めて重要なのであります。この法はいかなるところにおいても尊重されねばなりません。これは建造物だけでなく、人々の心の中の障壁をも取り壊す「公民権法(Civil Rights Law)」なのであります。

その目的は、障害者が自由に建物に出入り出来るだけでなく、社会のあらゆる機会に参加出来るようにすることにあります。今、私は、我々の国が、障害者の自立生活を支え、その介護にあたる人々に全面的なサポートを与えるにちがいないと強く確信しております。勿論、国家予算のバランスは考えねばなりません。そして私達は使う1ドル1ドルを大切にしなければなりません。しかし私達は同時に、私達の家族のケアを引き受けねばなりません。人々が必要とするプログラムを切り捨てるわけにはいかないのです。

ついで、障害に関して私達がなしうる最も賢明な方法の一つは、難病を予防し、治療するための研究に資金を投下することであります。我が国は既にそうした長い歴史をもっております。私達は問題にぶつかった時、必ずその解決を見いだして来ました。私達の科学者達は、これからも一層それが出来るはずです。彼らにチャンスを与えねばなりません。それは、研究のためにより多くの資金を投ずる、ということを意味します。今、アメリカには25万人の脊髄損傷者がおります。そして政府はこれらの人々の生活を支えるためにだけで年約87億ドル費やしております。しかし、彼らの生活の質を実際に高め、公的支援なしで済むようにし、さらには治療していくための研究には、国全体で年たった4000万ドル投じているにすぎません。私達はもっと賢明になり、もっと手際よく事を進めなければなりません。今日研究に投下される資金は、私達の家族の成員の明日の生活の質を規定することになるでしょう。

私はリハビリ中に、グレゴリー・パターソンという青年に出会いました。彼はたまたま車でニューアークを通り抜けようとした時、ギャングの撃った銃弾が車の窓を突き抜けて首を直撃し、頸髄に重傷を負いました。5年前であったら彼は死亡していたでしょう。しかし、この間の研究の進歩によって彼は助かることが出来たのです。しかし命が助かるということだけでは不十分です。私達は彼が被る苦痛をやわらげ、また他の人々がそのような苦痛を味わうのを防ぐ、道義的、経済的責務があります。そのためには増税をする必要はありません。志を高くもてばいいのです。

アメリカは、他の国の人々が恐らくうらやむであろう伝統をもっています。私達は度々、不可能と思われるようなことも成し遂げてきました。それは私達の国民性の一部となっています。この国民性こそ私達を大陸の端から端まで到達させ、我が国を世界一の経済大国とさせ、そして月まで到達させたものであります。私がリハビリをする部屋の壁には、轟音をあげて飛び立とうとするスペース・シャトルの写真が掲げてあります。それには、NASAの全ての宇宙飛行士のサインがしてあり、その写真の上の方には「我々は不可能なものはないということを発見した」という言葉が記されています。

これこそが私達のモットーであるべきです。民主党だけの、あるいは共和党だけのモットーではなく、アメリカのモットーであります。一つの党だけが出来ることではなく、国民として力を合わせてなすべき事であります。私達の夢の多くは、最初は不可能に見え、ついで、ありそうもないという程度になり、次にはやってみようという意欲が湧いてくるものです。最後に必ずや実現可能なものとなるでしょう。外の宇宙で成し得たことは内なる宇宙でも成し得るでしょう。そして今、多くの生命を奪い、我が国の多くのポテンシャルを奪っている脳、中枢神経系など、その他多くの難病のフロンティアがあります。

研究の進歩は、アルツハイマーを患う人々に希望を与えつつあります。私達は既にこの病気を引き起こす遺伝子を発見しています。研究の進歩はまた、ムハメッド・アリやR・ビリー・グラハムのようなパーキンソン病に悩む人々に希望を与えるでしょう。カーク・ダグラスのような脳卒中におそわれた人々にも希望を与えるでしょう。また多発性硬化症と闘ったバーバラ・ジョーダンのような人々の痛みを緩和することが出来るでしょう。既に亡くなった、エリザベス・グレイサーのようなエイズ患者のための治療方法を発見することも出来るでしょう。

私達は今「脊髄は再生する」ということを知っています。今や、世界中の何百万もの私のような人々が、この車椅子を離れ、立ち上がることが出来るようになる道筋の途上にあります。

56年前、フランクリン・D・ルーズベルトは国立保健衛生研究所(the National Institutes of Health、NIH)のために新しいビルを建てた時、次のように語っています。「国民が求めている防衛とは、戦闘機、軍艦、銃、爆弾を作ること以上にはるかに多くのことを意味する。我々は、健康な国民でなければ強い国民たりえない」と…。彼は、今日なら次のように言うかもしれません。「車椅子から何とかして自らを立ち上げ得た人は、国民を絶望から立ち上げうることにもなろう」と…。

私は、そして民主党政権もそうであると思いますが、我が国の最も重要な基本原則「アメリカは助けを必要とする国民を放り出しはしない」という基本原則を正しいと信じております。この基本原則はフランクリン・D・ルーズベルト大統領が、私達に教えてくれたものであります。

私達の全てが私達の全てを大切にする時、アメリカはより強くなるでしょう。こうした理想に新しい命を吹き込むことは、今晩ここに集まった私達にとっての挑戦課題であります。 御静聴を深く感謝致します。大変ありがとうございました。(1996年8月26日)

解説

このC・リーブのスピーチは以下の点で注目される。C・リーブは「障害を持つアメリカ人の法」(Americans with Disabilities Act 、ADA)を「公民権法(Civil Rights Law)」であると明確に述べている。単に社会福祉政策を進めるための行政的立法ではないと言うことである。

ついで、障害や難病の根本的解決に積極的に取り組むべきであると主張する。障害者の生活を支援する公的補助のみでなく、機能回復の研究や障害と疾患を根本的に治療するための医学・医療研究を推進することは、結果において、障害者の根本的QOLを高め、国民の負担を軽減すると考えるのである。しかもそれを「公民権思想」の一環として捉え、挑戦に値するフロンティアとして位置づけている。

そして、民主党に対してそのような政策を進めるように呼びかけたのである。一般的には、脊損者の社会的扱いは、補助金給付と社会福祉的ケアの対象という面に専ら重点が置かれてきた。機能回復や治療の対象ではなかった。それに対してC・リーブのスピーチはより積極的な視点を提示するものであった。確かに、クリストファー・リーブを支援する企業やメディア、組織にとって、スーパーマン・キャラクターは抜群のCM効果を持つ。同時に、「障害者に優しい」とかあるいは「福祉に熱心」という絶好のアピール機会を得ることにもなる。

また民主党には、その大会にC・リーブを招待することによって、クリントン大統領が署名した「福祉改革法」への「弱者切り捨て策」という反発をかわす狙いがあったかもしれない。恐らくこれらは当時のアメリカにおける「演出された」C・リーブ・フィーバーの一面でもあったとも言えるだろう。とはいえ、C・リーブのスピーチ全体の重要性はしっかりと把握しておきたい。

彼は「弱者切り捨て」を正面から批判し、さらに障害者問題を単に生活支援や介護の問題にとどめることなく、機能回復や治療のために積極的に医学・医療研究に資金を投じて行くべきであると繰り返し主張する。

実際には、脊損者が様々な付随症を克服しつつ立ち上がり得るに至るまで、長い困難な道のりは避けられないであろう。しかし何よりも、ベンチレーターを搭載した電動車椅子を呼気操作しながら積極的な活動を再開したC・リーブの姿そのものがこうした論点の重要性を物語るものであった。福祉のみならず、それまでは余り省みられなかった医学・医療の重視である。ビッグ・ネームの正鵠を得た発言と活動は、各界に一定の影響を及ぼし、その意義は小さくなかった。この間、リーブが設立し会長を務める「クリストファー・リーブ麻痺財団」は着実に発展し、研究支援の実績を積みつつ、脊損者への専門医学情報の還元を進めているのである。様々な形態の同様の組織も形成されている。

21世紀に入り、再生医療や遺伝子医療に関わる基礎研究は次々と新たな展開を見せつつある。しかし、わが国では、医学と医療と障害当事者の日常との間の乖離は、今なお絶望的な程である。この乖離を埋めていく努力が、医学、医療、行政、当事者相互の間で為されて行かねばならないであろう。障害者も医学の新たな地平に真剣に向き合うべき時代が来たのである。

(翻訳・解説:阿部由紀:2003年2月)